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一体となる。 Actions
of dairy life into art 鈴木大拙 一九五九年八月「東洋思想の特殊性」 |
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鈴木大拙は西洋と東洋との違いとして、西洋人はものを見 て観察していく客観性が知的論理性を構築させ、また東洋では「そのものになる」特殊性をあげている。このことは茶道を考えるとわかりやすい。 茶室に行くまでの露地を歩き、心を整える。外界とを断 絶するにじり口をくぐり、小間へと進み一輪の花と掛け軸を見て、お茶を飲む。そこで飲むお茶は煎じて飲むものではなく、葉を石臼で粉状にしてそのままを飲んで味わう抹茶である。時空を超えた空間をつくり、「お茶を飲む」という何気ない日常の行為を「道」としてきた。 私たちは何かを鑑賞して、外から見ていくのでなく、体験 して味わい、そのものと一体となることを至上としてきた。つまり宗教や哲学、芸術といったものは日常から生まれ、「道」として昇華されて、また日常へと戻されていく。 「to the living room」は見て鑑賞する展覧会ではない。日常の行為やそこにいたる過程を体験し、作品と一体となり味 わうための展覧会である。それは六人の作家たちの居間を訪ねていく行為から始まる。アートがホワイトキューブ空間で見られるようになり、社会と日常から隔離されて、まだ百年も経っていない。 昭和天皇の崩御による日本の象徴の崩壊に始まり 、地下鉄サリン事件による治安の崩壊、阪神淡路大震災による物質社会の不安感、バブル経済の終焉による経済の不信感。どんよりと重たく、このあと何があっても社会はよくなっていかないと思いがちな私たちに、作家たちは日常のささいな行為を提示し、その中に新しい可能性を見せてくれる。個人の価値観やこころの変化が社会をほんの少しずつ変化させてくかもしれない。この展覧会はそんな願いを込めて企画した。今私たちは日常とアートにリンクを貼り、飛び交いながらそのものと一体になれることを願っている。四十年前の鈴木大拙と三十年前の岡本太郎の文章を両手に携えて、 |
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我々が遠くに捨て去り、忘れてしまったはずの本 来的な生活の肌理(キメ)が、意識の奥底に生きている。一種のキヨラカな呪術のように、我々を縛りつづけるのだ。そしてそれが何らかの機会、たとえば芸術の表現によってむき出しにされたとき、われわれは不意に、言いようのない親近感をおぼえる。それは生甲斐だからだ。 岡本太郎 一九六九年「忘れられた日本」 |